01.24.06:07
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01.15.11:46
ヒトクローンES細胞についての論文がすべて捏造であった、との一連の記事が、ここしばらくトピックとなっている。
その一方で、アメリカで多臓器移植を受けた日本人の子供の記事が出ている。 病に苦しむひとたちにとっての福音としての、臓器移植・再生医療。 果てはクローン。 では、と問う。 「どこが残っていれば、人は<そのヒト>であると言えるのか?」 脳か?脳細胞の一部だって移植される治療が存在する。 形として取り出すことができない「心」、そしてかけがえのない「記憶」が<そのヒト>なのだろうか。 しかし、科学者たちの探求のメスは、心すらも切り刻む。 不確かなものの存在を許さないかのように。 今日の一冊。 「心は実験できるか−20世紀心理学実験物語−」 (L.スレイター、紀伊国屋書店) オペラント条件づけや偽記憶の実験など、10の心理学的実験についてのドキュメンタリー。 こころの迷宮に切り込むメス。 自らの身体をも切り刻む諸刃の剣。 臓器移植が最終手段となる病気の治療を海外で、と公言し募金をつのる例は、今では特に珍しくない。 だが、と思う。 本当にそこまでする必要があるのだろうか? 人の親になったことのない僕には、このあたりを語る資格は本当はないのだろう。 それでも、「全財産を投げうってでも」の気持ちまでは分かる。 しかし、<全財産>を超えてしまう時、それはひとつの運命として受け入れなければならないのではないか? 移植が終了すれば、それで終わりという訳ではない。 その後には、拒絶反応との闘いが待っている。 それこそ「死ぬまでの闘い」だ。 そのすべてをサポートし続けるだけの力を、果たしてどれだけの人が保ち続けるのだろう? 同じ病気で「募金をつのる」ことをしない人たちだっている。 そういう人たちが表(含むネット)の情報に出てくることはない。 しかし、もし出てくれば「どうしてここ(募金活動)までしないのか?」という声に晒される危険もある。 それは暴力ともなりかねない。 人間は平等でなんかない。 ペシミスティックと言われても、それが事実。 タイトルに挙げているパンドラの匣の中に最後に残ったものは「希望」。 時としてこの「希望」が、逆に人を苦しめることにもなる。 もちろん、僕だって「希望」は大切だと思うが・・・。 PR
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♪*%+#>."`@+*!{3a=*`<,?.♪ぱんどらぁ〜<コクトーツインズ♪ |
私財を投げ売って… |
例えばこんなとき・・・ |
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